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人間はどういう時にドヤるのか?
世の中の非生活費需品の存在価値は(例外物や例外の人はもちろんいますが)、「他人にドヤるためにある」のではないでしょうか。
つまり、ドヤる相手にその価値がわかり、ドヤった相手が悔しがったり羨ましがったりすればいいということです。
以前の記事では「メタバースに必要なのはドヤり」であると述べましたが、今回の記事では「ドヤること」について掘り下げていきます。
ドヤれる相手が増えれば価値がつく
伊集院光さんのエッセイで「牛乳瓶の蓋がクラスでブームになり、珍しい蓋が高額で取引された」という逸話が登場します。しかしある日「これゴミじゃん、臭いし」と、一気に冷めてしまったといいます。
「牛乳瓶の蓋」がある集団内でブームになり価値がどんどんつけられていき、持っている牛乳瓶の蓋がいかに珍しいかという尺度でドヤっていたにも関わらず、ブームが冷めた瞬間に牛乳瓶の蓋がゴミと扱われてしまうというエピソードです。
ドヤる、ドヤれる物の価値というのも、そういうものかもしれません。
ある集団内で価値が共有されるものと言えばNFTが浮かびますが、NFTもドヤれるのなら価値はあるのでしょうし、NFTの発展はドヤれる相手が増えるかどうかなのでしょう。
危険な匂いがするとドヤれる
人間は、危険な行為をわざとやることで、己の生命力を誇示するということがあります。
クジャクは羽を広げて己の生命力の高さをアピールしますが、危険な行為は人間にとってのクジャクの羽のひとつなのではないでしょうか。そうした自身の魅力をアピールするための危険な遊具は、いつの時代でも求められているように思います。
古くは不良の音楽だったロックや、不良のたまり場だったゲームセンターがそれにあたります。近年では「トー横」も危険と隣り合わせであることで「こんな危険な場所で生きているおれの生命力を見ろ」と、己の生命力を誇示しているのではないでしょうか。
<Wikipedia:トー横キッズ>
そう考えると、メタバースも参加しているだけで身の危険が及ぶ場にならないと、己の生命力の高さをアピールする場としての機能を果たせないのかもしれません。
出はじめた頃の2ちゃんねるも盛り上がっていましたが、キレイでもない上に罵詈雑言が飛び交い、IPを抜かれたりするという「少し危険な匂い」がすることから、人が集まったのではないでしょうか。
原文・高橋建滋
編集・ササニシキ
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