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メタバースは人が集まる場である
自分の中での「メタバース」の解釈は、SNSの次に人が集まる場、企業が集めようとしている場であると捉えています。
人が集まればその場はお金になりますが、SNSは登場して15年以上経ち、若い人たちにとっては昔からある古いものという位置づけになっています。そこで、新しい場を作って若い人を誘致し、新しい覇権を取ろうとする世界的な流れが「メタバース」であるという解釈です。
つまり、実も蓋もない言い方をすると「人が集まりさえすれば、技術的にはどうでもいい」ということでもあり、もっと言うと「技術がどんなに素晴らしくても、人が集まらなければ駄目である」ということです。
よって、「どのようにして人の心に寄り添うか」に焦点を当てた話を追いかけた方が良いというのが持論です。
この記事では「人の心」に焦点を当ててメタバースに必要なものを考えていきます。
人が集まる場とは「ドヤる場」のことである
人が集まる場のキーワードは「ドヤる(マウンティング)」、「ドヤるための、共通価値観(架空の事実)の洗脳」。
このあたりでしょうか。
ドヤる(=マウンティング)とはつまり、自分の力や才能、財力をアピールし群れの中で優位性を示そうとする行為で、それは群れの中での生存確率を高める本能的な行為です。
<weblio:マウンティング>
この場合において会話とはドヤるために行われるものですが、会話するには「現人神」、「御神体」、「人身御供」が必要だと考えています。
それぞれは、以下のようなものだと解釈します。
現人神
現人神は、ひとりで話を作れたり会話をまわすことができる人や、いるだけで話題になる有名人を指します。
御神体
御神体は「新しいバッグを買った」、「新しいガジェットを買った」、「新しいアバターを作った」といったものを指します。それを軸に話ができるものであり、御神体を持っている自分をどやれる性質があります。
人身御供
人身御供は、他人の陰口であり、誰か一人を貶めること(「逆ドヤり」とも言えます)で、その場の会話を生み出すことを指します。陰口が盛り上がるのはこのためです。
人は「こいつ(この会社、この物)は無制限に殴って良い」と決めつけたものは無制限に殴る習性があると思いますが、それは会話をするための「人身御供」であり、人とは常に犠牲者を探し、その苦労と死を肴に一杯やりたい生き物なのではないでしょうか。
これらがあること、もしくはこれらがしやすい場こそ、ドヤれる場として人が集まる場になるのではと考えていますし、逆にドヤる事ができない場だと、人々は会話ができなくなり次第に人が集まらなくなるのではないかと考えています
〇〇叩きは「イキり」への反発
ドヤるということはグループの中で自分の優位性を示す行為(マウンティング)であり、グループでの地位を向上させて自分の生存確率を上げる動物の本能に即した行為といえます。
しかし、グループ内での優位性はグループ外の(その価値観を共有しない集団)から見ると、ただの「イキり」になります。
特定の商品を蛇蝎のごとく叩く人たちがいたとして、その商品全般に価値を感じない集団、もしくは「商品の値段やブランド価値で優劣を決めるという価値観が無い集団」から見たら「いきっている」ようにしか見えないのはこのためだろう思います。
ドヤりは人間の無意識
「そんなことを考えながら会話してない」と思う人もたくさんいるだろうとも思いますが、それは、ドヤりとは自分の体に染みついている本能であり、無意識の内に流れているOSレベルの処理であろうと考えています。
メアバースも、人が扱い人が集まる場であれば、いかにドヤれる場にするかを考えなければいけません。
多くの人が集まる場にするためにはドヤりを考える事は必要な事だと思っています。
原文・高橋建滋
編集・ササニシキ